夢を叶えるアイドルの話〜碧い海の話を読んだ話〜


私は、このブログを開くことを、怖いと思っていました。ログインもほとんどしていなかった。ここは、私がオタクを続けることを怖いと思った場所だからです。
でも、ここは私が夢にもう一度巡り会った場所でした。どなたか分かりませんが、今でも毎日10人くらいの方が見てくださっていることを、久しぶりにログインして知りました。間違えて画面を開いてしまっているだけかもしれません。それでも、昔は怖くてたまらなかった数字が、今はなんだか、うれしい気がします。



めせもあ。は、夢ともう一度巡り会わせてくれるグループだと思います。知らなかった夢を教えてくれるグループだと思います。夢を、叶えてくれるグループだと思います。



2017年5月、2年前に初めて書いたブログと同じこと。今もそれは変わらないし、野崎さんのブログを読んで確信しました。

私は小さい頃から文章を書くことが好きでした。小説家になることが夢でした。少し大人になって自分の性格の特性を知って、コピーライターになりたいと思うようになりました。自分は文章を書いて生きていくと思っていました。きっと家族も、そういう生き方を望んでいたんじゃないかと思います。でも、私は言葉を紡ぐことができなくなりました。目的がなくなったから。自信がなくなったから。言葉に力がないと知ったから。いろんな理由で、私は書くことをやめました。
ずっとダンスをしてみたかった。でも両親は、それを好みませんでした。結局、行く宛がなくて一人ぼっちで踊っていました。
そんななか私が出会った演劇は母が好んでいたもので、とても喜んでいました。芝居は私にとっても大事なものになっていて、それでもどうしようもない空虚感を持っていた。そんな時にむすめん。に出会いました。

むすめん。の夢が叶う姿を見ました。私はその姿に夢を見ました。自分ができなかったことだから、憧れて、そして応援したいと思った。

ちょうどツアーが始まって、初めてのホールツアーで、チケットはたくさん余っていた。私がこのブログを最初に更新したのは5月の半ば。GWに始まったホールツアーの、まだ空席の残る会場を見て、私は悔しかった。新規のオタクだからできることってなんだろう、そう思って、自分がオタクになった経緯を読んだら新しいオタクが増えるんじゃないかって願って、ブログを書いたことを覚えています。言葉に力はないって知ったはずなのに、性懲りも無く。たくさん前向きな言葉をもらって、そのなかには信じられなかったけれど、心が動いたって言葉もありました。
でも、同じくらい否定的な言葉ももらった。初めてでした。力がなくても、言葉は自由だと信じていたから。発することすら許さない意見に、もう二度と書きたくないと思った。それでも、もう一度背中を押してくれる人がいた。それからも怖くてなかなか開けなかったけれど、鍵アカで時々こっそり更新だけして、ログアウトしていました。ブログを読んだ人に誘ってもらって、去年の年末、久しぶりに公開アカウントでブログを書く機会をもらいました。Fil Meに誘ってもらって、コピーを書く機会をもらいました。少しずつ再開したリアルの活動の方でも、私の作品を取り上げてもらったり、原稿依頼をいただいたりするようになりました。いつの間にか、また、息をするように書けるようになっている自分がいました。何もない日に、こうやってブログを書けるくらいに。

一人で踊っている動画を見たフォロワーさんが声をかけてくれて、誰かと一緒に初めて踊ってみたの動画を撮りました。誰かと踊るのって楽しいなって知って、友達を誘って一回限りのパフォーマンスをした。それに参加した一人が誘ってくれて、私は今、毎月20人くらいの仲間と一緒に動画を撮っています。

小説家にはなれなかった、コピーライターにはなれなかった、ダンスを習うこともできなかった。

でも、本当にそうだったよ。

「学生の頃に抱いていた夢は、たとえそれを諦めたとしても、いつかどこかでその夢に巡り会えることがある」

野崎さんの言葉が、本当に胸にすとんと落ちました。
私は、MeseMoa.さんは夢を叶えてきたグループだと思ってきたし、今でも思っています。でも、他の夢を諦めて、叶わなかった夢を抱えて、新しい夢を叶えようとしているグループなんだ、ってやっと気付けました。
自分が叶えられなかった夢を叶えていこうとしているから応援したくなるんじゃない、自分と同じで、叶えられなかった夢を乗り越えて次の夢に向かうグループだから応援したいんだ、って分かりました。

このグループは、いろんな人に、夢ともう一度巡り会わせてくれるグループだと思います。それは、むすめん。が、MeseMoa.が、いろんなことに挑戦するグループだから。踊ることから始めた10人が、衣装を纏って、歌って、ブログを書いて、オタクと話して、たくさんSNSを更新して、たくさんの動画を投稿して、たくさんのステージに立ってくれたから。
SNSには踊ってみたがあって、歌ってみたがあって、演奏してみたがあって、衣装を作る人がいて、お人形に服を着せる人がいて、ブログを書く人がいて、絵を描く人がいて、漫画を描く人がいて、写真を加工する人がいて、その他にもいろんな創作に満ちていた。私は他に、こんなジャンルを知りません。
創作や芸術はゴールがないし、指標もはっきりしていないから、その道に進むことは難しいと私は感じています。その夢を諦めた人も、たくさんいると知っています。そんな人たちが、MeseMoa.を通じてもう一度夢に巡り会えるんじゃないか、って私は思う。昨日の野崎さんのブログを読んでタイムラインに溢れたツイートには、実際、そんな内容がたくさんありました。



最近、妹に言われて、言葉を失ったことがあります。
「なんでブログを書くの?私には分からない。」
純粋な問いだったんだと思います。でも、なんだか冷たい音に感じました。
別に、理由なんてないです。マラソンランナーがあんなに長距離を、しんどいのに走るのが好きだというと、普通の人は「なんで?」ってなるでしょう。私はたまたま、それが文章を書くことだった。それが、自分のなかで気になったことをとことん突き詰めて考えることだった。当たり前のようだったそれが実は普通じゃなかったこと、「なんでそんなことするの?」って共すれば批判されるものであることを、私はここに来てやっと知りました。
でも、MeseMoa.さんも、そういうことをしてここまでやってきた人たちだと思うんです。なんでコピーダンスをするの?なんで歌うの?なんで被り物をするの?なんでそんなに長い小説のようなブログを書くの?なんでゲームを配信するの?
それは、好きだから、だと思うんです。


さっき『いろんな人に』って書いたのはそういうこと。創作活動への夢を持っていなかったり、あるいは全然違うベクトルの夢を持っていた人たちにとって、MeseMoa.さんは夢ともう一度巡り会うグループではないかもしれない。
でもみんな、MeseMoa.さんの夢を応援したくてここに集まった人たちなんじゃないかって思うんです。
MeseMoa.さんのダンスが好きだから。歌が好きだから。パフォーマンスが好きだから。人柄が好きだから。言葉が好きだから。それは、『好き』を夢みて叶えようとする彼らの夢を、応援しようという感情のはずです。そこにはもう、「なんで踊るの?」「なんで歌うの?」って疑問はないでしょう。彼らが好きなことを一緒に好きになって、その夢が叶うことを一緒に願ってる。
それは、今まで見ることのなかった夢を教えてくれることと同義なんじゃないか、って私は思います。
そしてこれからきっと、武道館の夢を、次の夢を叶えてくれるって信じています。


ありがとう、MeseMoa.さん。
おこがましいかもしれないけれど、夢を叶えてくれてありがとうございます。





MeseMoa.さんに出会ってから離れていた演劇の世界に、また声をかけてくれる人が現れました。これからも私は、どこかで文章を書くでしょう、どこかで下手くそなダンスをするでしょう。あの時のような空虚感はありません。だから、もう一度芝居の舞台に戻る選択をしました。新しい夢を教えてくれて、本当にありがとう。

これからもMeseMoa.さんはもっともっといろんな人の夢との待ち合わせ場所になるんじゃないかな、ってそんな期待を私は持っています。

本当は恩返しがしたいけれど、私にそんな力はありません。でも、何もしないよりは何かした方がいいと思うから。嬉しかったこと、楽しかったこと、感じた感謝、どんどん口にしていきたいなって思います。そういえば最近、白服さんの中島健斗ツイートからオタクになった人がいるって聞いて勇気が出ました。偶然踏んだURLからオタクになる人だっているかもしれないでしょう?
そして、嘆いているだけじゃなくて、自分に出来る努力もしていけたらいいなって。しがない社会人になる私は、もう叶えたい夢はないと思っていたのにね。まだ夢を見つけていいんだって教えてもらった気がします。
野崎さん、素敵なブログをありがとう。背中を押してくれた推し、ありがとう。
きっとこれを読んだあなたの推しも、あなたと夢を出会わせて、背中を押してくれるんじゃないかって、私はそう思います。MeseMoa.さんは、そんな夢のようなグループだから。



拝啓、嵐様

2018年9月24日。なんの日か、ご存知でしょうか。
今年の十五夜は、その日なんだって。
CFTMのライブはその直前に行われる、きっと月に帰ってしまうみんなの、地球最後の宴なんだろうなぁ。



私は、嵐くんが大好きだ。

もちろん静は綺麗だし豊の歌声には涙したし晴の明るさに救われた。賢者の言葉に頭を悩ませ博士の笑顔に安堵し月詠の美しさに言葉を失って、弓弦のかっこよさにため息をついて海月の幸せを願った。帝はどこまでも神々しくて、かぐや様は愛らしく、朔夜様はかわいい。

ただ、私は嵐くんがどうしたって好きだ。ほぼとみたけさんじゃん、って言う言葉を聞いたりもしたけれど、推しとして自信を持って言う、嵐くんととみたけさんは別人だ。
CFTMにでてくるみんなは、親族さんと一緒で、ご本人とはまっっっったくの別人だと思う。
もちろんご本人を応援してるから私はこんなものを書いてるんだけど、でも嵐くんが好きで好きでたまらなくて、いなくなってしまうことが今とても寂しい。だから、手紙を書くことにした。(以下、とみたんの、嵐くんの演技(特に姿勢の作り方)が好きですってことを長く長く書いているだけです こまけーよ!ってな)



拝啓 嵐様

暑さも遠退き、夕日に虫の音が響く季節となりました。気温の変化の激しいなか、いかがお過ごしでしょうか。お体など壊されていませんか。こちらは嵐くんのお名前のような野分に見舞われ、月を見ることはままならない状況です。どうか、お気を付けてくださいね。
嵐くんはまだ、地球にいらっしゃると伺っています。月へ帰られる前に少しでも伝えたい思いがあり、筆を執らせていただきました。

嵐くんは、本当にとみたけさんによく似ています。かっこいいのに、笑うと可愛らしいところ。歌が上手でダンスが丁寧なところ。

ただ、とみたけさんと違う、いいえ、違っていたと思うところもたくさんありました。

私たちの見るとみたけさんは、マイクを持っていたり、自分より背の低い人間と話すために、やや猫背になっていることが多いと感じます。こちらの目を見てくれる、とても優しい人なんです。けれど、嵐くんはいつも広く胸を開いて少し高いところを見つめている、そんな立ち姿だったと記憶しています。自由で堂々としたその姿に、一目見て見惚れたことを覚えています。
また、嵐くんはCFTMという世界のなかで、常に皆を鼓舞して引っ張っていく、年長のような存在でした。とみたけさんはグループでは弟キャラで甘えていることが多いけれど、嵐くんは晴や豊のボケに突っ込んだと思ったら賢者を助け、朔夜を守り、かぐやを慮る、大人な存在でした。とみたけさんは普段、語尾が上がった甘えたな話し方をするのに、嵐くんは語頭が強い意思のはっきりした話し方をします。しかも、絶対に誰かを否定しない、ポジティブな言葉しか発しないの。

去年の12月に嵐くんに出会った時、だから私は衝撃を受けたんです。
その一月前に会ったとみたけさんは、ミュージカルへの出演を不安だと語っていたこともあったけれど、私が見に行った舞台にとみたけさんはいなくって、嵐くんを見つけたの。
かっこよくて明るくて大人で強くて、時々かわいい嵐くん。

そんな嵐くんに、教えたいことがあるの。最近のとみたけさんって、ちょっと貴方に似てきた気がするんだ。
後輩が増えたからか大人びたように見えるし、外のイベントのMCも嵐くんみたいによく話していて、よく回りを見てるなって思うの。不安がる言葉より、前向きで明るい言葉を聞くことも増えた気がする。嵐くんの影響なのかもしれないなってほんとに少しだけ、思ってる。今までのとみたけさんもそれはそれは超絶かわいかったんだけど、最近は大人っぽさとかっこよさも兼ね備えて無敵って感じがします。

だから、嵐くんは地球でするべきことを終えたから、月に帰ってしまうのかなって少し思ったりして。寂しいけど、それはとってもいいことのはずだから、笑顔で送り出したいなって思うようになったよ。

ミュージカルなんて無理だよ、って言ってたとみたけさんが、みんなに会いたいって言ってるのを見て、伝えなきゃって思ったの。
嵐くん、生まれてきてくれてありがとう。
私は嵐くんのことが好きでした。一番前を走っていく、何にも臆することのない、とても優しい嵐くんが。

でも、私が応援したいのは、嵐くんじゃなくてとみたけさんでした。遠い世界で戦う強くて優しい嵐くんも素敵だけれど、私がずっと見ていたいのは、どんどん強く優しくなっていく、でも人間らしくてかわいいとみたけさんでした。嵐くんにも見てほしかったなぁ、とみたけさんってとっても楽しそうに、幸せそうに歌いながら踊るんだよ。

きっと嵐くんにはまだまだ月でやらなくちゃいけないことがあって、とみたけさんもいつまでも嵐くんに体を貸してるわけにはいかないから、嵐くんは月に帰らなくちゃいけないんだね。寂しくなるなぁ。直接だって何回も見たのに、DVDも浴びるように再生してしまう。 いつまでだって嵐くんの姿を見ていたかったけど、永遠なんて絶対にないもんね。最後に会える機会をもらえただけ、とっても幸せだと思います。

月の人が私たちの前に姿を見せるには、きっと準備がいると思うから、来週まで心待ちにしています。せっかくの機会なんだから、とびきりのお洒落をしていこうかしら、なんて思ったりして。嵐くんはいつだって幸せな気持ちを作ってくれるね。

嵐くん、本当にありがとう。それと、とみたんに、嵐くんに魂をいれる器を貸してくれてありがとう、って伝えておいてね。

二週間後の地球最後の宴まで、どうかお体には気をつけてね。荒れた日本の気候は、まるでみんなを月に返したくないのかな、って思っちゃうくらいだけど。十五夜の日に、どうか安全に帰れますように。十五夜の次の日は満月だって言うから、私も湖の端の地球から思いを馳せようと思います。

みづうみに櫂ゆつくりととかしゆく 月の白さはしづけさのいろ

飲み過ぎには気をつけてね。宴に参列できること、本当に嬉しく思います。そして、少し早いけれど、よい旅路になりますように。嵐くんのこれからが幸せなものでありますように。

かしこ


(全員分書いてもよかったんだけど莫大な量になるのでやめました)

ライブに友達を呼んだ話とアイドル界のてっぺんの話

そういえば、私が初めて投稿した記事は、めせもあ。さんの布教ブログでした。そんなことを思い出しながら、さくっと今日あったことを残しておきます。これが正しいブログの使い方だよ、覚えておこうね。

久しぶりに初回のブログを読み直すと、そこには(この前の記事で少し触れた)、あん○タのイベントを走っていた初現場の話を書いていました。
そういえば、むすめん。のことをディ○ニーランドの帰りに友達から布教されたことを思い出して、なんだか可笑しくなって少し笑いました。

デ○ズニーランドの広告にめせもあ。が起用されたその日、私は初めて新たな友達への、めせもあ。の布教に成功したんですから。


関西とはいえ、私の大学は古都、地元は田舎町、イベントがあるのは大都市。友達をなかなかイベントに連れてくることができないのが現状でした。
もちろん、言い訳なんですけど。1年半の時間をかけて、私は今日、大学の友達をフリラに連れてくることに成功しました。しかも、3人。

ライブが始まるまで、なんだか今までに味わったことのない気分になりました。私より前に入った彼女たちのことを何度も何度も見た。overtureがかかって、あぁ、私、緊張してるんだ、って気がつきました。自分が舞台に立つときだってこんなに思わないのに。

本当に楽しんでもらえるのかな。リリースイベントだから初めて聞く曲ばかりだし、人はたくさんだし、ちゃんと見えるかな。ペンライト貸してあげればよかった。メンバーの名前とか曲とか、もっと伝えておいてあげればよかった。
なにか、祈るような気持ちでshine on youを見ていたのを覚えています。最バケが始まって、握った手を回している3人を見て、心の底からほっとしました。
全握も、今日はすごく早かったし、かなり前の方だったから、何も分からないまま行ったはずです。それなのに、頬を紅潮させて私の方に駆けてきて、『本当によかったよ!!また誘ってね!!!』と大声をあげた友人に、私は泣きそうになりました(泣きませんでした)。

それは、初めてのライブを見たときの私の姿と同じでした。

今日のフリラで、「フリラをはじめてから、いろんな層のファンが増えた」って白服さんか誰かが言っていて、とても納得しました。めせもあ。は、ライブを見て分かる、ライブだから感じられる魅力があるんです。誤解を恐れず言えば、動画や写真だけじゃ分からない魅力。なんなら、事前の知識がなくても、パフォーマンスだけで人の注意を惹き付けることのできる力。命の通った、訴求力とも言うべき何か。
その力を私は、二度見て、確信しました。

(※)これは最初のブログにも書いていたことなんですけど。めせもあ。さんって、すごく『アイドル』なんです。『idol(偶像)』じゃなくて、お客様に笑顔を届ける、一緒に笑顔の向こうの幸せにたどりつく、そのためのパフォーマンスをするべくステージに立っている『アイドル』なんだな、って。「武道館に行きたい」という言葉も、より多くの人にとって『アイドル』となりたいという言葉のようにも、夢を叶えることで今のオタクを喜ばせる『アイドル』でありたい、というようにも感じます。

そんな力を持っためせもあ。さんが、私、すごく好きなんです。きっと。

家に帰って、3人のうち一番の友達から、「二人とも、すごくキラキラしてて楽しかったって!」って連絡があって、今度こそ少し泣きました。今日は2部あったから、いつもより少したくさん握手させてもらって、暑いなかひとりひとりに言葉をかけようとしてくれるめせもあ。のみんなを見て、やっぱりみんな素敵だな、ってすごく思ったんです。ほんとに、キラキラしてるんです、誇張じゃなくて。
私にとっては初現場の時の推しが強烈な印象に残ったし、今日見に来てくれた3人にもそれぞれ印象に残った違うメンバーがいて、それこそがめせもあ。さんの強みの、いろんな魅力を持ったメンバーがいるからこそいろんな人に興味を持ってもらえるきっかけになる、ってことだと思うんですけど。
みんなのアイドルになるために、アイドルでいるために、努力してる姿は全員が、とてもかっこよくて、美しくて素敵だって思った。明日(もう今日ですけど)のチェキ券全員分持ってないのを後悔しています、今。

それくらい素敵で、大好きな人たちを、たった3人だけど新しく知ってもらえて、興味を持ってもらえたことが、私は本当に嬉しかったんです。

同時に、もっともっと知られてほしい、って思った。
あと二人見てくれたら、さらに二人が興味を持ってくれたかもしれない。フリラを30分見ただけでこんなに人の心が動くのに、そんな強さを持った力が今、ここにあるのに、それが見つからないのがもどかしかった。

だから、もっともっと、友達百人でも作って、ライブに連れてきたいなって思いました。それはたぶん無理ですけど。でも今日会場にいたオタクが、一人ずつお友達連れてきたら、300人くらいになると思うんです。山口公演の会場、埋まるじゃないですか。
こんなに大好きなメンバーがいて、もっと前に進もうともがいていて、その力があるって知っていて、信じてるんだから。前に進む力添えができるオタクは、少しでも力になりたい、って思いました。中野やzeppを埋めた2000人が、一人5人ずつ誘えば、10000人。武道館、もう見えてると思うんです。

彼らは本当に『アイドル』だし、そんなことをしなくても前に進むって信じているし、進んでいるのを知っています。
それでも、死ぬまでに彼らに出会えないもったいない思いをする人も、きっとたくさんいるはずです。もし私が、オタクが声をかけて、そんな人たちと彼らが出会って、一緒に幸せになれるとしたら、すごく嬉しいと思うんです。
少なくとも私は、嬉しかった。一生めせもあ。さんを見ないで終わるかもしれなかった3人の目に彼らが映って、そして笑顔にしてくれたことが。そんなアイドルのオタクをできていることが。

私、めせもあ。さんにアイドル界のてっぺんに立ってほしいんです。
それは、めせもあ。さんがアーティストでもホストでもなく、『アイドル』だと信じているからです。もう少し具体的に言うと、最上の演奏やパフォーマンスを届ける芸術家でも、CDを売り上げたいミュージシャンでも、バラエティやドラマでもてはやされるイケメンでも、盛り上がるクラブを仕切ったり甘い言葉をかけたりする男性でもなく、その場にいるゲストを笑顔にし、幸せにすることを最優先にする真の『アイドル』という存在だと思うからです。
最近のTVで見かけるアイドルは、演技の仕事やバラエティなどで人気を集めてタレント化し、地下アイドルのホストのような営業もたびたび話題になっています。
私は、そのようなidolが何を考えているのか分かりません。『idol(偶像)』として、感情を超越した崇拝対象としてあるような気持ちすら感じます。

めせもあ。さんには、いつだって進むわけがあって、夢があります。にーちゃんとまた踊るために中野サンプラザを目指し、恩返しをするために職業・アイドルを目指し、'message more'としてさらなる言葉を届けるために武道館を目指している。そのmessageは、私は、みんなを笑顔に幸せにする言葉だって信じています。いつだってそこには心があって、ただの偶像じゃなくて、『アイドル』だって思うんです。

今日、初めてめせもあ。さんを見た友達の姿に、その感覚が嘘ではないと再認識できた気がします。だから私も、声を大にして言いたい。

「めせもあ。さんはアイドル界のてっぺんになる存在だ」って。

これからも、少しずつかもしれないけど、ライブに友達を呼ぶよ。友達がさらに友達を呼んでくれたらまた増えるし。
そして本当にたっくさんのオタクと9人と一緒に、笑顔になれる未来を見たいな、って思った夏の終わりでした。もう秋だけどね。

あまりに遅くに思ったこと書いたので文章が煩雑そう。あとで気がついたら直します。
めせもあ。さんのこれからに幸が溢れますように!


(※)長くてカットしたんですけどせっかく書いたので載せておきます。

めせもあ。さんの持つライブパフォーマンスの強みは、大きく分けて二点あると思っています。

一点目は、メンバーと歌の多様性が挙げられるかな、って。クラスにいるなら、優等生の委員長タイプ、いじられキャラ、ウェイ系、金髪、黒髪、マッチョ、細身、高身長、低身長。歌のうまいメンバー、ダンスのうまいメンバー、華やかな表情、控えめな仕草、力強い声、繊細な歌。どこかしらに共感だったり、好きになる要素を持ったメンバーだと思います。9人って数も絶妙で、少人数編成より気になるメンバーがいる可能性が高くて、かといって4846系ほど多くなくて見失わない人数。曲も楽しいものからかっこいいもの、綺麗なものまでさまざまで、どこからのオタクでも捕まえてやるぞ!って気概を感じます。(私だけかもしれない)

そして、二点目は、会場の空気を作ることに長けていること。例えばディズ○ーランドは、完成された夢の世界を客が楽しむ『鑑賞型』、U○Jはゲリラライブやハロウィンなど、積極的に客をキャストの一員に取り込もうとする『参加型』のテーマパークだと思っていて、アイドルはこのどちらか一方に片寄っているものが多いイメージです。ジャ○ーズ事務所のコンサートは『鑑賞型』、オタ芸の盛んな地下アイドルの現場は『参加型』という感じ。めせもあ。さんは、そのどちらのよいところもとっているから、新しいお客様が入りやすい空気を作っているんじゃないかな、と思うんです。メンバー側から強制的にコールをさせたり踊らせたりはしないし、鑑賞に徹するファンもいるけれど、ライブを繰り返すなかでできているメンバーとオタクの掛け合いのようなものがあって。初見でもある程度それにのることができるけれど、より詳しくなったらもっと楽しいだろうな、という期待。
端的に言うと、初めての人でもあたたかく受け入れる土壌と、その上でより知りたい、加わりたいと思わせる現場の一体感があるんたろうなぁ、と思います。それは、お客様ひとりひとりに目を配って、一緒に歩こうとしてくれるメンバーの皆さんの配慮、アイドル性とも呼んでいいものの賜物だとも。

オタク、平成最後の夏を終えて

オタク、平成最後の夏を終えて


※これは絵のない絵日記くらい内容がないです、なんの主張もなんの布教もないただの雑記です。読書感想文ならぬライブ感想文です。面白いことは書いてありません、私のレポ、備忘録みたいなものです
※地下アイドルのオタクをするのは初めてのオタクの話です、そりゃそーだろ!って歴戦のオタクの方は思うと思うので読むのをおすすめしません


お盆を終えて、田舎街の自宅に戻って一週間、なんだかやっと平成最後の夏が終わった実感が沸いてきた。
私にとってオタクとして二度目の夏。全部が初めてだった去年と違って、去年と同じようにライブに行って、去年と同じように推しと話した、そんな気がしていた。

物販の列が長くなって、くじの玉はお米ばっかりで、会場が広くなって、チェキ券の抽選にドキドキして、そして二番くんの生誕祭に両部落ちた(まじだよ)、夏。でも、なんだかそれも全部楽しくて、去年がそのまま続いているような感覚だったけれど、ふと思い返して思う。
今年は明らかに、去年とは違う夏だった。その前の年を私は知らないし、一昨年はやっぱり去年と違う年だったかもしれないけど、私にとってこの一年は陸続きだったのに、大きく変わっていたことに今さら気がついた。

だって、私が行ったぜっちゃんの卒コンは、1か月前に行くって決めてチケット譲ってもらったやつじゃんか。Zeppのフリラ、落選して求めてる人たくさんいたよ。前日までもライブあって、翌日もあるのにさ。
そもそもみすもあ。なんてグループ去年はなかった。チェキ券は並んで買えるものじゃなくなった。去年の夏の地元公演はライブ後のとみたんのチェキ券6枚くらい持ってて、並び直してまた撮れたのに。みんな少しずつ持ってるから、撮影列がすっごく長くなった。もともと二番くんは取りにくかったけど、のっくんも数ヶ月行けてない。
ライブ会場に眼鏡持ってくの忘れてさ、表情見るのが好きなオタクなのに自分が見てるのがとみたんなのかのっくんなのか分かんなくなるの。そもそも私が遠くを見るには眼鏡必要なくらい目が悪いって知ってるオタク、ほとんどいなくない?

ストレートに言えば、今年はファンが増えたんだ。それに尽きる。
メジャーデビューもしてないし、リア友に聞いても「めせもあ?なにそれ?」「あー、よくえ○ちゃんがツイートしてる推しでしょ!」レベルの知名度だし、私も新しいオタク友達はそんなに増えてないし、早く見つかれ!なんて思ってたけど、そう思ってたのは私だけらしい、ってやっと気がついた。ファンは明らかに増えてるし、少しずつでも、世界から見つかりはじめてる。

去年はツアーのチケもなかなか完売しなくて、Twitterのアカウントまで作って、少しでも田舎街の会場が埋まるようにって祈って、ツアー中ほぼ初めてくらいに埋まった座席を見て、泣いて喜んだ。今年は少し箱は小さくなったけど、同じ田舎街の公演はFCでもたくさん落ちて、みんながチケット求めてるんだよ。台風が来る悪天候で、たった少ししかない出番なのに、たくさんの人が田舎の湖にまで来てくれてた。去年は渋谷の駅の地下の広告を探し回ったね、今年はハチ公を出た一番目立つところにあるよ。

私は、それがすごく嬉しかった。チェキ券取れなくなった寂しさと同じくらい、たくさんのオタクが並ぶ撮影列が、それでも変わらず話してくれる推しが好きで、生誕祭に落ちた悲しさと同じくらい、広い会場や花道に立つメンバーを見るのが嬉しかった。
だから、オタクとしての私の感情の起伏はすごく少なくて、満たされた気持ちでいっぱいで、何も変わっていないと思っていたんだ。


それが違うって気付いたのは、たぶん、フリラの時。
ZENBUとゆあざを聞きながら、私は強烈な違和感を感じた。そして、最バケで確信した。
私は、こんなグループを知らない。
こんなに歌声に厚みがあって、ダンスが力強くて、何より自信に溢れたグループを知らなかった。

あおいさんってこんなに大人だった?全世界が恋するよ。
白服さんってこんなに堂々としてた?どこかの南国の神様だって言われても信じちゃいそう。
ぷんちゃんのこんなにのびのびしてた?ちょっと噛んだって気にならないくらい余裕があった。
野崎さんってこんなに説得力あった?ステージにいるだけでなんだか安心した。
げるたんってこんなに自由だった?あんなに楽しそうに笑うなんて知らなかった。
兄ってこんなに明るかった?これからは当たり前のようにこの高音があるんだね。
二番くんってこんなにかっこよかった?まぁ前からかっこよかったけど。
のっくんってこんなに綺麗だった?いつ見ても天使みたいだなぁ、って。
とみたんってこんなに幸せそうだった?こっちまで幸せになるくらいに、ずっとずっと見ていたくなるくらいに。

暇さえあればDVDで見ていたけど、まさか生きてる間にfantasyが始まるを生で見ることができるなんて思わなかった。久しぶりに聞いたラスリグなんて別の曲みたいだった。
でも、初めてライブを見たときみたいに、登場を見るだけで泣いたりしなかった。大好きな曲が流れて、みんなが感動するようなバラードが流れても、この夏は泣かなかった。幸せだ~!ってばかみたいにずっとずっと笑ってた。


ほんとのほんとに幸せで、チェキ会でもそれ以外何も言うことが浮かばなかった。
ブースにはいって、当たり前のように座って、ポーズも思い浮かばなくていつものピースとハート。券は一般でとれなかったから、最近ではお決まりの二枚。
「明日でお盆の連勤も終わりだね、最後まで体に気を付けてね」
「5日間ほんとのほんとに楽しくて、幸せだった!」

「ねぇ、なんで泣いてるの?」

推しに言われて気付くなんて、オタク失格だと思う。すごい笑顔だったはずなのに、なぜか、泣いていた、らしい。
でも、ブス顔晒したけど、本当に幸せで笑ってたんだから許してほしい。なんでか涙も出てたけど。
「最初の現場の時はぜんっぜん興味なかったくせにねぇ」
昨日妹から聞いたらしい話をして、推しが笑った。

「今は、泣いちゃうくらい好きなんだねぇ」

半分正解、半分外れ。泣いちゃうくらい大好きで幸せなんだよ。
それから少しだけ、未来の話をした気がする。あんまり覚えてないけど。



突然なんですけど、私、ワンドリの曲がすごく好きで。特にぱじまじとバーロー。ゆあざもそう。なんか、成功する未来しか見えてないような底抜けに前向きな曲が好き。
そんななかで、あんまり聞いていない曲があって、それが参年タイムキーパーだったんだけど、昨日、ふと妹と聞いたの。そしたら、今までのこと思い出して、いろんなこれからの未来を考えた。

あと何回、推しのとなりに座って、同じように話せるんだろう。あと何回、推しのいる夏を過ごせるんだろう。
中学校や高校の頃の知り合いよりも、下手したら大学の友達よりも、会ったことのないフォロワーよりも、この夏たくさん会った。なのに、その人たちにはどうしても会いたければいつだって連絡できるのに、いつだって会えるのに、推しが表舞台から消えてしまったらどうやっても言葉を届けなくられないしどうなっても会えなくなる。

少なくとも、推しと過ごす平成の夏はこれで最後なんだなぁ。というかこれからの現場はひとつひとつ推しと過ごす最後の平成の日なんだよね。
推しと過ごせるこの季節だって、数えるほどしかないかもしれないし。

だから、もっと一回一回を大切にしたいな、って少しだけ思った。でも、今の私にとって一回一回がとっても楽しくて毎回が最高を更新するくらい幸せだから、これで十分なのかなって気もして。
たぶん来週も、私は当たり前のような顔をして推しの隣に座って、ピースで!って言っちゃうんだろうな。二番くんにはかっこいいしか言えないし、のっくんには久しぶりしか言えないし、白服さんには顔が好きって連呼するんだろうな。

でも少しだけ、同じ現場は二度とないし、もう何回この場所に座れるのかも手を握れるのかも、言葉を伝えることができるのかも分からないってことを忘れないで、現場に行きたいなって思った。
そこに今いてくれるだけで幸せだし、どんどん素敵になる姿を見ていられる、未来を待つのも幸せだし、会場にいろんな色が増えていくのも幸せだ。低燃費すぎるオタクってよく言われるけどそれでいいよ。ちなみに今幸せなこと思い出してブログ書いてるだけで幸せ。それなのに、直接それを伝えさせてくれる場所があるって、贅沢すぎて死んじゃうんじゃないかな。
でも、それでも全然十分に伝えられてない気がするから書いちゃうんだけどさ。

今まで幸せをくれてありがとう。今も幸せにしてくれてありがとう。幸せな夢を見せてくれてありがとう。

今までで一番幸せな夏でした、平成が終わっても、きっと死ぬまでこの夏は忘れないよ。
でもなんの年号か分からないけど、来年の夏はもっと幸せになるような、そんな気がしています。もっといろんな人に見つかって、もっと大きな箱で、もっと素敵なパフォーマンスを、きっと見れる気がします。
満足したのでこの辺で長い日記をやめます。こんな長文、宿題だったらA+だわ。手紙なら即ゴミ箱行き、迷惑かけないブログに放置くらいでちょうどいいわね。
去年の私のブログを読んでもすごい楽しそうだなって思うから、これを読んだ来年の私にも幸せだった気持ちがよみがえるといいなぁ、なんて思ってます。

ほんとは『十五夜に月に帰る話』(CFTMについて)との二本立てにしようと思ったけど、あまりに長くなったから今度暇だったら書きます。

どうしようもなくバカだよ、だいすき!

CFTM雑記・考察に至らない何か

CFTMが終わったので、思ったことをつらつらと書いてみます。ネタバレしかないため、ご自衛ください。
もう二度と嵐くんに会えないと思うと、帰り道で少し泣きました。地元は雪。そんな風情いらないから早く再演してほしい。

CFTMはご存知の通り竹取物語をオマージュにした作品です。お伽噺を元に架空の歴史物語として書き換えたものですね。手法としては古くから一般的な書き方で、最近で言えば浅田次郎司馬遼太郎歴史小説、広く言うなら銀魂や薄桜鬼もその一種ではないでしょうか。
また、登場人物が実は語り部であった、というパターンも王道ではあると言えます。先にあげた浅田次郎さんの「一刀斎夢録」などもそうです。平安後期から鎌倉時代にかけて生まれた歴史物語の流れが、日本の文学作品において恐らくその初期のものだと考えます。語り部が出てくる物語は「鏡もの」と言われるものが一番分りやすく、有名な例でしょう。語り部が登場人物だと分かるものは、今浮かぶなかでは泉鏡花の「薬草取」なども近いかもしれません。ただ、オチが「俺がこの物語を書き留める!」「俺たちだけが知っている真実の物語」的なのをすごく見た記憶がある。漫画かアニメか最近見たもののなかで。思い出せなくてなんかもぞもぞする。もし分かる人がいたら教えてください。

CFTMの難しいところは、最後の展開が怒濤で、ひとつの台詞を聞き逃すと結末が分からなくなるところです。舞台あるあるですけど。それと、考察の時点で古典の知識がいるのかもしれないなぁ、と思っています。理解されてる方もほとんどかと思いますが、まずは(忘れないうちに)物語の筋を追ってみます。

始まりは海月の夢。何者か分からない月からの使者の戦いの最中、一本の矢に倒れ、自身が負けたせいでお仕えする帝(上様)の最愛のかぐやが月に帰ってしまう夢。この時点でかぐやは「もう(戦わなくて)よい。」という趣旨のことを言ってるんですね。伏線が早い。
弓弦の登場でこれが海月の悪夢だったと明かされて物語が始まる。

月にいるかぐや姫は不老不死の薬を飲まず、月詠も飲むように提案しながら無理に飲ませることはしないため、すっかり老いてしまっていた。ここでかぐやと似ているとして、弟の朔夜が現れる。勉強を教えてくれる五人の先生の自己紹介が挟まって、かぐや同様朔夜が地球に思いを抱いていることが分かる。月詠と博士の歌で地球と月の違いが示される。ここの月詠はあくまで教科書通りのことしか述べず、彼自身が地球に対して何を感じているのか定かではない。対して博士は月の優位性を歌う。
物語の根幹に関わる疑問ではないかもしれないが、天の羽衣が三種の神器になっていることは少し気になった。不老不死の薬や地球と月の移動装置は確かにすごい。でも地球での記憶だけを忘れてしまう天の羽衣は素晴らしい発明品なのだろうか?しかも、それはかぐやの纏っているひとつしかないのだろうか?それなのに三種の神器?うーん、でも確かに今の地球にはないすごいものだからいっか。

それからかぐやが月見団子を食べたいから持ってこい、と朔夜に我儘を言い、月詠や博士には内密に、五人の先生と共に朔夜は地球に旅立ちます。朔夜のお色直しといって捌けるのは豊と晴。その二人がどこまで知っているのかは分かりませんが、逆に残った嵐、静、賢者は何か知っているような気がします。特に嵐なんて、晴や豊に一緒についていきそうなのに。「地球のことを覚えているか」とかまをかける賢者に、かぐやはしらを切ります。真顔で追及する二人に対して、嵐は全てを知っているような穏やかな笑みを浮かべて黙っています。ただ、「なぜ薬を飲まないのか」という直球の静の質問に対しては制止に入ります。嵐は薄々かぐやの記憶があることに気がつきつつ、優しいというのか事なかれ主義というのか、といったイメージを受けます。対して静は、かぐやのことが気にかかるのか真相を暴こうとする印象です。賢者は後の「誰も、誰の事もわからないものだよ」の台詞のように、他者への理解を諦めているような、あるいは掟を破った(※1物語の根幹に関わるので後述)かぐやに対し、ほんの少しだけ真実を明らかにするお膳立てをしながらそれ以上に助けもしない、静観という厳しい姿勢を示しているように感じました。

場面は地球に移り、弓弦と海月の稽古シーンに。そこに上様が現れ、海月が三十年間時を止めていることが明かされ、不老不死の薬を飲んでいることが分かります。そのあと月からのワープ装置の起動に気付き、弓弦はそちらに駆けていきます。
地球に降り立った5人組はもたついている間に朔夜がはぐれてしまい、5人と弓弦は再会の喜びを味わう間もなく朔夜を探しに向かいます。朔夜を見つけた場所で、5人は海月と出会います。海月は朔夜がかぐやの弟であることを知り、5人が弓弦の知り合いであることから月の人間であることは恐らく気づきます。しかし、「月からかぐやを連れ戻しに来た5人」と同一人物であることには気付いていません。
なぜかぐやとの仲を引き裂いた5人に海月は怒りを抱かなかったのか?という疑問を見かけましたが、恐らく気付いていないのです。海月の記憶は他にも欠陥があります。「自身が二人の仲を引き裂いた」という強迫観念に駆られ、忘れていた記憶を思い出すシーンがあります。夢の中で見る月の人々の姿も、普段の月での衣装に重ねて白のオーガンジーの布を羽織っている。顔には仮面がつき、声もほとんどありません。海月の戦いの記憶はひどく曖昧です。
話を戻します。場面は月に戻り、朔夜を月に送ったことに対してかぐやが博士と月詠に攻められるシーンに移ります。その会話で、博士がかつて自らかぐやを地球へ送ったことが分かります。
さらに地球へ話が戻り、かぐやが地球にいた頃の回想シーンに入ります。竹から生まれたかぐや姫は、竹取りの翁に大事に育てられました。その美貌を聞き付けた殿方からの求婚にも耳を貸しません。帝の声にも応じなかった姫でしたが、最初は断りの文を返していたのに、文を交わすうちにだんだんと心が引かれていきます。ここまでは古典の竹取物語に同じです。
しかし、かぐや姫からの返事に帝は満足できず、従者の海月によい案はないか尋ねます。海月は、和歌に音をつけて歌にすることを提案します。ミュージカルあるある。

ただここの台詞が少し物語を分かりにくくしています。
「歌詞の意味も分からないのに、今も耳に残る子守唄があります。」
ここで海月の言う子守唄は、かぐやが朔夜に歌う子守唄とは別物です。海月は帝の従者として文を受け渡しできる年齢。かぐやが地球に来て数年で大人の姿にまで成長したことを考えると、海月はかぐやよりも先に地球では生を受けています。つまり、海月はかぐやの子供、あるいは弟であること、かぐやの子守唄を聞くことはありえないのです。
海月のいう子守唄は、海月が赤ん坊だった頃の、(作中に出てこない)海月の母親が歌ったものと考えるのが妥当でしょう。和歌に音をつける、という突拍子もない、ミュージカルにするためのある種メタ的な提案に説得力を与えるための台詞と考えています。

ここから、帝とかぐやの音に乗せた歌のやり取りが始まります。平安時代、貴族の男女は直接会うことを許されなかった。帝の従者である海月と、かぐやのお供である弓弦は、それぞれの主である歌を受け渡すことで親しくなっていきます。そこで、ある日弓弦はかぐやから、別れの歌を託されます。それを海月に伝え、海月は帝に伝えるためにその別れの歌を覚えた。海月は言います。
「その悲痛の文を受け取ったときのことを、よく覚えている。」
そして、別れの話に。5人はあの時戦ったのが自分たちだと分かるような発言をしますが、海月は既に思い詰めていて気付きません。そのまま回想シーンは終わります。

夜の海辺で歌いながら刀を振っていた海月に、朔夜は聞いたことがある歌だと声をかけます。これが、先程出てきた、海月が帝へと伝えるために覚えた、かぐやからの別れの歌だったのです。かぐやはその歌を今も、子守唄がわりに朔夜に歌い続けていたのです。
その後話は進み、海月が朔夜に稽古をつけているのを、5人と弓弦が見守ります。嵐は「体育教師がいなくて困ってるんだ。」と弓弦に言う。嵐も十分に刀の指導ができるはずなのにせず、そう言ったのは、弓弦の帰る場所を残して待っている優しさだと感じます。一方静は不老不死の薬を弓弦に押し付け、月の様子について弓弦に問われても、戻ってきて自分で確認しろと言って去ってしまう。それに対して嵐は怒ります。かぐや、嵐、静、賢者のシーンと同じ構図です。やかましい嵐、落ち着いた静という性格でありながら、人に対しては、静観して相手の決断を受け入れる嵐と強く問い質そうとする静は逆の性質を持つように思います。
6人がいなくなると、朔夜が巻き貝を耳に当てるシーンになります。海月はそれを見て、何か言いかけてやめてしまう。同じことをかぐやがしているのを、海月は見たことがあるのです。

順番は入れ替わるかもしれませんが、この辺りで、弓弦が月にいる博士にコンタクトをとるシーンがありました。かぐやが月に帰ったあと、上様の様子を見届けてほしいと言われ、ずっと地球に残っていた彼は、かぐやが薬を飲まずに老いてしまっていたことを知らなかったのです。
「かぐやを無理矢理月に連れて帰ろうと言ったあの日から、お前は様子がおかしい。」※2
通話の切れる直前の弓弦のこの台詞が、特に重要な伏線でした。

また、舞台は月に戻ります。月に戻った朔夜は、勝手に地球に行ったことを月詠に責められます。そして、かぐやの願いであった月見団子を渡そうとするものの、かぐやは月「見」団子を食べたかったと言います。地球からでないと、月を見て食べる団子ではないですからね。その屁理屈に、地球に行きたいのなら、そう言えばいい。嵐と静の言う言葉を無視し、かぐやは退席してしまいます。不老不死の薬をまた口にしないかぐやに、月詠はかぐやが地球でのことを覚えているのではないかと問いますが、天の羽衣を着ているのだから覚えてはいない、とかぐやは嘯きます。

静は、博士のもとを尋ねます。軽口を叩きながら、その本意は、なぜかつて、かぐやを地球に送ったのか問うこと。答えない博士の代わりに賢者が現れて、「野蛮で恐ろしい地球に行けば、地球への憧れがなくなると思ったから。」と答えを教えてしまいます。そのまま賢者は静に退室を促しますが、博士の秘密は暴かれてしまった。※1と重なりますが、これは博士がタブーを犯したことへの静かな制裁にも見えます。



その夜、眠れない朔夜のもとに嵐が訪れます。「刀を教えてやろうか?」弓弦が月に戻る気がないと分かった今、誰かが月の御子である朔夜に刀を教えなければならない、と思ったのでしょう。ひとしきり騒いだあと、朔夜は嵐に巻き貝を手渡します。耳に当てると聞こえる音が何の音なのか自問する朔夜を嵐は穏やかに見つめて、それからいつもの茶化したような感じで去っていきます。恐らく、かつてかぐやが同じことをしたのを知っているのです。すごい。大いなる愛。一番好きなシーンです、みんなもよかったらここの表情見て……、すごいから……。まぁ私の好みなんてどうでもええねんけどな!

(※3ここから問題のシーンです、解釈に自信がないので浚うだけです!)
海月がまた夢を見ています。そのなかで、海月が初めて帝と出会ったときのことが語られます。海に浮かぶ月を見ながら、帝が乞食同然の海月に名前を与えた。それから、海月は帝を幸せにすることに人生を捧げようと誓います。
悪夢から覚めた海月のもとへ弓弦が現れ、今の帝の姿である、上様もやってきます。そこで、かぐやが月へ連れていかれてしまう戦いで海月が弓に射たれたこと、その傷を治し海月の命を救うために、海月に上様が不老不死の薬を与えたことが明かされます。その上で上様は、自身の命が絶えそうな今でも薬は飲まないと言う。上様がいなくなったあと、海月はもう一度、かぐやと上様を会わせたいと言います。「そうすれば、お前の悪夢は終わるのか?」「上様は、お前が悪夢を見続けていることを心配している。」弓弦の言葉に海月は答えませんでした。

続いて、かぐやが朔夜に子守唄を歌うシーンです。朔夜はそれを聞き目を覚まし、かぐやに聞く。この歌の現代語訳から考えると、かぐやは地球にいたときの記憶を残しているはず。(かぐやが月に戻った三十年で古文から現代文にまで文法が変わることはないと思うんですがそれは置いておきます。古文の先生は嵐。嵐が気づいていないわけ、なかったんですね。)
かぐやの返事を肯定と理解して、朔夜は5人にかぐやの記憶が残っていることを告げます。天の羽衣を着ているはずなのに、なぜ記憶が残っているのか。そこで、かぐやの天の羽衣が偽物であること、それは博士が仕組んだことであると明らかにされます。

博士はずっと前からかぐやに思いを寄せていた。月に閉じ込めておきたいと思いながら、地球へ行きたいというかぐやの願いを、タブーであるのに叶えてしまった。大好きな人の願いを叶えたいのは、よく分かります。地球という月に比べて遅れた星で、かぐやは地球に幻滅するはずだと思っていたのに、逆に好きな人を作ってしまった。
博士は、叶わない恋の苦しみを共に味わえばよい、と偽物の天の羽衣をかぐやに着せます。けれどそれは、ずっと明かされなかった。恐らくかぐやは、悪意によってなされた忘れないでいることを、逆に喜ばしいと感じていたのでしょう。だから記憶が消えていないことをを隠していた。だから、博士とかぐや以外は知らなかったのです。まぁ気付いてはいたでしょうけど。
そのかぐやの心を代弁するように、朔夜が言います。自分なら忘れたくない、本当は忘れてしまうのがかわいそうだから忘れないようにしてあげたんじゃないの、と。愛の物語であり、豊の台詞にもあるように、好きになった人がどうやっても手に入らないのはどうしようもないし、それを妬んでしまうのも道理です。ただその行為をかぐやと朔夜が別の理由から肯定したのが、この作品を通しての博士への救いなのだと思います。
そこに、地球にいたはずの弓弦が現れる。博士へ怒りをぶつけようとした弓弦を月詠が止め、朔夜の立てた作戦を実行することになります。


朔夜は、上様とかぐやを再び出会わせるために、自身がかぐやの若い頃の姿に変装し地球に向かい、一度は上様との対面を果たします。ただ、それでは上様の気持ちは満たされても、かぐやは辛いままです。朔夜は、やはりかぐやが上様に会いに行くよう説得するため、海月を連れて月へ戻ります。
若い頃のかぐやの姿にそっくりな朔夜と出会えたなら、上様は幸せだろう、自分が行く必要はないとかぐやは言います。海月は、上様は朔夜がかぐやの影武者であったことに、本当に愛した人ではないと気づいているはずだと訴えます。そのとき、地球と月の中継が繋がり、博士とかぐやは直接話す機会を得ます。かぐやは地球での記憶が残っていることを認めた上で、それを喜んでいると博士に言う。ひどい仕打ちをした相手ではあるけれども、遠回しに感謝をのべているのだとも感じました。
お供たちの説得もあり、かぐやと上様は真の対面をします。そして弓弦は海月に聞くのです。
「これでお前の悪夢は終わるのか?」

ここで観客は、かぐや姫の物語を見ていながら、本当は海月の物語であったことに気付きます。海月はなおかぐやと上様の仲を守れなかったことを悔いている。
そこで、かぐやは海月に命を救われたのだと告げます。月の使いから月に戻るように伝えられた時に、かぐやはその未来から決して逃れられないことを理解します。月に連れて帰られてバラバラになってしまうのならば、かぐやと帝(今の上様)は共に海の月に帰り、死んでしまった方がよい。そう思った二人を海月は止めます。その結果、二人は潔く別れて生き続けることを選びます。
海月の記憶は、この辺りから曖昧です。自責の念に駆られ、忘れていた、自身が戦ったときの記憶。
かぐやは、どうせ別れるのなら華々しく門出を飾りたいと、お供たちに模擬戦闘を命じたことを明らかにします。そこで海月はかつて自分が戦った、かぐやと帝の仲を引き裂いたのが目の前にいる朔夜のお供たちであると気付くのです。
彼らは皆、博士に命じられた通りかぐや姫を連れ帰ることができればよく、地球人を傷付けるつもりはなかった。海月が射られたのは味方の流れ矢で、彼以外に犠牲者はいなかった。ただ彼は運が悪かったのだ、と嵐と静はあっけらかんと言います。豊と晴はどこか同情する表情。一方、その話を聞く賢者はひどく無表情で、博士は怯えた表情をしています。博士はその話を聞いて初めて、自分がかぐやを思う気持ちのせいで、海月の人生を狂わせてしまったことを知ったのです。
「なにも、しらなかった…。」
「地球からかぐや様を連れ戻すように命じたあなたは異常でした。だから私は、地上にいる弓弦とコンタクトをとって、できるだけ派手に戦うようにとこの者たちに命じたのです。」
博士と月詠のこの台詞は、※2と関連を持つ、物語の結末を担う台詞です。この三つが全てといってもいいくらい。(怒濤すぎて実は私は3回目の観劇でやっと消化できました。)
自分の愛に振り回され、かぐやを地球に送ったものの、かぐやが愛する人を作ったことに怒り、自身が月の技術を掌握していることをいいことに無理矢理連れ戻させた博士。物語の始まりは全てその叶わない愛でした。

嵐と静の「運が悪かった」は、その愛をどうしようもないことだと受け入れているようです。晴や豊、事実を告げたあとの月詠や弓弦の表情は、海月への、そして博士への同情や哀れみのようにも思います。ただ無表情の賢者は、少しだけ責めているようにも感じます。確かに博士は禁忌を犯し、何の罪もない海月を傷つけたのですから。

海月は「なんだ…。」とこぼしながら、どこか安心したようにも見えます。人と人が交わるなかではどうしようもないことで、そして傷付いたのが身寄りのない自分だけであったことに安堵したのかもしれません。
「これでお前の悪夢は終わるか?」
「代わりに賑やかな夢を見そうだ。」
そう言って月の人間は月へ帰っていきます。

上様が亡くなり一人になった海月のもとを、朔夜が訪ねてきます。朔夜は、(遮られるものの)自分がかぐやと帝の子供であったということを告げます。つまり、かぐやは月で出産をしています。
不老不死の月の世界でどのように人が生まれ、死んでいくのかは定かではないですが、恐らく姫に遣えていたのがお供たちは、かぐやが出産したことを知っているのです。※1の、賢者の掟を破った「かぐやへの」怒り、怒りとまで言わなくとも静かに責める姿勢を持っていたのでは、というのはこの点です。かぐやを地球に送った博士だけでなく、さらにそこで恋愛をし、子どもまで作ったかぐやも掟に背いている。賢者は博士にもかぐやにも、秩序を乱すものとして厳格な態度を示していると考えます。

話はそのままラストに向かいます。上様を守る、という生きる意味を失った海月を心配して、お供たちがやってくると、海月は生きる意味を見つけたと言います。
「うまくいくかわからないけど、書き留めてみようと思うんだ。」
かぐや様が怒らないように、恥ずかしがらないように、所々伏せながら。

そして書かれたのが現代に残る竹取物語であった、というお話です。あらすじなが。あらくないすじでごめんなさい。

とりあえずまずは、名前について考えてみたいです。
海月の読み方、クラゲだと思ってたの私だけじゃないですよね。でもクラゲって海に映る月みたいだから海月って書くらしいです。同じ意味だった。命名の理由は作中に出てきた通りでしょう。ロマンチック。

五人衆の名前が月の海からとられているのは結構タイムラインでも見ます。嵐の大洋、晴れの海、静かの海、豊かの海、賢者の海。このなかで「賢者」だけどこか異質な感じがします。嵐、晴、静、豊、とどれも一文字で、自然を感じさせるものなのに、突然の賢者。波の海、雲の海、氷の海なんて名前もあるのに、賢者。それと、賢者の海だけは、五人の名前にとられた海のなかで唯一月の裏側に位置するものだそうです。なんの意味があるのか。月の裏側の命名は月の表側の命名よりはるかに最近のことですから、長く生きていたというわけでもなさそう。わからん。
晴は朔夜をかぐやにしたて、またかぐやの老いへの恐れを救うための役目、豊は物語を歌でエンディングに導く一番重い役目、静は冷静にキーパーソンを追及して物語を進める役目、嵐は朔夜が古文でできた歌を読み解くために、また愛をもって愛を教える役目、賢者は優しげに見えながらタブーを犯した人間には厳しくあることで真実を暴く役目を持っていたのかな、と勝手に思っています。
愛を後押しするのが晴、愛を伝えるのが豊、愛を許すのが嵐、愛を守ろうとするのが静、愛だけで全てを許さないのが賢者、みたいな。分かりにくいですねごめんなさい。

月詠は、月読命の呼び名であり、古事記にその初出が見られます。一方、日本書紀では月読命の別名として月弓の記述も見てとれるそうです。
月弓は、弦月の別名とも言います。上弦の月、もしくは下弦の月。弓張り月とも呼ばれる月のかたち。武器が弓のわけでもなく、一見月に由来の無さそうな名前の弓弦はここからとられているのではないかと推察します。
そうなると、弓弦と月詠は対というか、コンビともとれる間柄なんですね。かつてかぐやの一番近くに遣えていたのが弓弦、今かぐやの一番近くに遣えているのが月詠。かぐやを月に連れ戻そうと博士が命じた時、弓弦に裏でコンタクトをとったのは月詠だった。博士を殴りに月に戻ってきた弓弦を制したのは、月詠だった。
公演後に気付いたのでこのくらいしか浮かびませんが、恐らく先生たちのなかで、5人組と月読コンビ、博士に分かれるような気がしています。

朔夜は月のでない、新月の夜。
かぐやは(後世の当て字かもしれません、出典は見つけられませんが)、月の輝く夜、輝夜ではないかと推察します。
博士は、全ての始まりのキャラクターです。彼の愛が根元にあり、物語は広がったのですから。

ここまではなんとなく読み取ったことなんですが、続いて考察の中の疑問点をあげてみます。

①※3で出てくる歌。
「怯えているのはなぜだ?怖いからか?震えているのはなぜか?知っているからか?」
「暗闇のなかで泣いていた」
と帝は言い、それに対して海月は「言われて、初めて自分が泣いているのだと気がついた」と言います。そのあと帝から名を授かったものの、また繰り返すのです。
「怯えているのはなぜだ?」
「怖いからです」
「震えているのはなぜだ?」
「知っているからです」
名前をくれた帝がただ、幸せでいてほしかっただけなのに、と続きます。

最初に震えている、怯えているのを名前に関することだとすると、名前をもらった後にも震えている、怯えていることに辻褄が合いません。
仮説として、海月が月の人間だったというパターンを考えています。最初に震えている、怯えているのは、はっきりは分からないけれど、名前をくれる帝が幸せになれないと感じている。そして名前をもらったあと、月からの使者が来たかぐやが抵抗できない、抵抗しても叶わないと知っているから、別れの日が来るのを怖いとするパターンです。ただ、これは続く②の理由でなしな気がします。
今一番考えているのは、繰り返される「震えている」「怯えている」の理由が違うパターンです。一度目は、自分に名前がないことが怖くて震えている、名前がないということは誰からも必要とされず生きる意味がない、その事実を知っているから怯えている。ただ自分の名前も知らない海月はそのことを言語化できないため、帝の自問自答になっています。名を与えられ、海月は一度自信と喜びに溢れたものの、自分では帝を幸せにできないということに怖がり、薄々知っているから震えるのではないか、と。

②紋章問題
かぐや、帝、上様以外に紋章があることから、恐らく不老不死の薬を飲んで時が止まった人に紋章がでるのでは、と思っています。パンフを見て気付いたのですが、海月以外月の紋章なのに、海月は地球の紋章なんですね。日本を中心とした地球に太陽が上っていて、月の軌道が地動説で示されている。
これは、薬を飲んだ地とも考えられますが、のんだ場所で紋章が違うのも変な話。これは月の人間か地球の人間かの違いなのかな、って少し思ってます。体質違ったら違う柄、みたいな。
でも、紋章の位置についてもさっぱりなので、やっぱり謎が深い。

③月の満ち欠け問題
私の記憶では、照明で作られた月は、最初に海月が夢から覚めたときは満月でした。次の海月の台詞では、南の空に浮かぶ半月です。その次に照明で作られたのは左が欠けていった10日目の月、三日月、新月と推移していたように思います。満月から新月に推移するときは、右側から欠けていくはずなのです。なぜだ。
最初の歌のシーンで、お供たちが背中をこちらに向け、指で時計の針が進むように腕を動かす振り付けがあります。もし彼らが正面を向いていたら、その針は反対方向に回ることになる。彼らが後ろを向いている理由は(単にかっこいいっていう可能性もあるんですが)分からない。海月の記憶の曖昧さからしてももしかすると逆行しているのかな…?と思ったものの、月の人間に時空を越える力があるならそれを言ってそうだからなしなのかな。




④弓弦について
弓弦は、あのまま海月と地球で年を重ねるのだと思っていました。嵐が言ったように、朔夜に刀を教える人材が必要で、最後の会話に少しありましたが、海月が人間としての寿命を迎える前に、朔夜が海月に勝てるように育てる、ということに生き甲斐を見いだしたのかとぼんやりと思います。時の流れに従うのも悪くない、と語った弓弦とは少し矛盾を感じましたが、あの時薬を飲まなかったのは飲みたくなかったわけではなく、自分がもらった薬を上様に渡せば上様が生き永らえるのでは、ということが過ったのなら納得できます。上様が亡くなった地球に生きる意味は見出だせなかったのかもしれません。ただ、置いていかれる海月はあまりにかわいそうだな、って少し思った。









分からないことだらけでしたが、いろんな人とここはこうじゃないか、ってお話できたらきっと楽しいだろうなって思えるボリューミーな物語でした。表情ひとつ、台詞ひとつから見えるものもあると思うので、円盤の発売を楽しみに待ちたいと思っています!

Muddy Waterについてノリとテンションで考えるだけ

※全文ノリとテンションです。

 

 

Muddy Waterの歌詞的に歌われているのは主にとみたけ、白服、あおいの三角関係。

泥で汚れている演出からあおいが白服を殺害、それに怒ったとみたけがあおいを殺害。後者はMVでの演技シーンでも描かれているし、ラストのしろあおだけが立って残りが座っているのは、二人だけがこの世にいないことの暗示ではないか。また、このことからしろあお以外のメンバーは生存説をとる。
たくさん考察してる人いるだろうし分かりやすいので三人に関してはこのくらいで。

残りのメンバーの関係性はこの歌で歌われている関係でなくても自然なので、「三人で」は冒頭の三人にかかるものとし、他メンに関しては広く解釈の余地を残す。前作のshadow kissのイメージを引き継いでいることも明示的だが、一方で、前作では全員のキスシーンが描写されるため、明確なベクトルが分かりにくい。今作で描かれた三角関係もshadow kissだけでは明らかでなかった。前作に関しては、とみたけと白服のキスを筆頭に、いくつかの『尺が長い』『背景や演出が凝っている』『冒頭、ラスト、キャプチャーなどの印象的なシーン』といったもののみをとりあげる。
他メンに関する考察として足りない部分は、恐らく同じ白ワイシャツを着用している写真集「KISS」を元に考える。

振り付けから、全員があおいを撃つような仕草をするため、全員が白服を殺害したことに対して反感を抱いており、白服が皆から好かれていたことを示すと共に、直接手を下さなくても、全員が大きく言えば「加害者」、細かく言うなれば「とみたけがあおいを殺害することを分かっていて放置していた」と捉える。

ノックソ、フォーゲルのみMV中で接触するため、まずはそこから検討する。
一番のあおとみ以外の最初の歌詞割りは、白服、フォーゲルの「しとしとこぼれる孤独な答え合わせ」(MV中のソロ画像あり)。フォーゲルはあおいが白服を殺害したことに対する第一発見者かつ、白服と仲のよい、あるいは理解者ではなかったか。歌詞や写真集などからこの二人の恋愛描写は読み取れないため。(むしろ写真集とMVを共に検討するとフォーゲル→気まぐれプリンスのベクトルのみが浮かび上がる。後述するが気まぐれプリンスは本作のなかで孤立、さらに兄プリのイメージを持つため、片思いだったかもしれない。)二人の登場シーン、二番Bメロ後半では、フォーゲルはノックソの方を一瞥もしない。彼の頭のなかは恐らく白服のことでいっぱいだ。あるいは、これから殺されるあおいのことで。ノックソは、そんな彼を過去や同情、嘆きから振り向かせようとするが、諦めて離れていく。
この振り向かせようとする意図は、恋愛とも友愛とも読める。写真集の二人の写真からは、ノックソ→フォーゲルのベクトルは恋愛、フォーゲル→ノックソのベクトルは友愛かと想定できる(ただのっくんは友愛でも耳に手を添えるくらいはしそう)。どちらにせよ二人は決別する。その後の二番サビのクソゲルユニゾンが「流れはさえぎれない」。時は流れてフォーゲルは心を痛めたまま孤立し、ノックソは一人で歩き出す。

このノックソとフォーゲルの決別シーンの既視感が、写真集のノックソと野崎弁当のシーンだ。お互いに目を合わさず、躊躇いの手を残しながら離れていく。ノックソは同様に何人もの人に別れをつげて来たのかもしれない。発表順を時系列順として考えると、今作のノックソと野崎弁当は決別後と考えられる。論拠として、一番サビ、ラスサビの歌割りとMVのソロショットが挙げられる。ノックソと野崎弁当のユニゾンは「錆びる心臓」。
心臓が止まる→時が止まる、と解釈できる。野崎弁当はノックソと別れてから、孤立している。このことはMVから見てとれる。

野崎弁当のもうひとつの歌割りが、二番Bメロの気まぐれプリンスとの歌唱だ。「はたはたぶつかる歪な質疑応答」。気まぐれプリンスもMV中ではほとんど孤立のイメージを貫くため、このユニゾンは二人がそれぞれの場所で自問自答していると考える。あるいは、傍観者としてあおとみしろのぶつかり合いをみているか。野崎弁当は作中で全てを諦めたように動かない。野崎弁当と白服のキスシーンは前作のキャプチャーにも、渋谷の看板にもなっていた。あおとみしろの三角関係で描かれるほどの重さはないにしても、少なからず虚無感を抱いているのかもしれない。

9人を3:3:3に分けるなら、あおとみしろ、野クソゲル、兄プリ煎だろう。
兄プリ煎、って珍しいな、まさかこの三人なんて、と最初は私も思ったし、そう思う方も多いだろう。KISSの写真集を見れば、その謎は解けるはずだ。

野崎弁当と対照的に、気まぐれプリンスはメイン三人以外では大きい行為を移す。
位置や光の向きから考えて外を見晴るかす位置におり、MVの時間軸が(白背景の部分を除いて)基本一方通行のため、彼はとみたけがあおいを殺害するところを見ていた。表情を変えずに走り出す彼は、(冒頭にも書いたが)振付から考えるとあおいの殺害に対し反対の意思はない。事実の確認が済んだ時点でこれ以上の関係がこじれることをふせぐために、とみたけに見られる前にその場を離れたと考える。急いでその場を離れなければならない理由として、これが最も分かりやすい。

気まぐれプリンスの残りの歌割りは、にーちゃんと一緒である。落ちサビのにーちゃんの「lay me down once again」からの、気まぐれプリンスの「lay me down with you」。
この二人は、shadow kissのなかでも尺の長め、かつステンドグラスを背景とした印象的なシーンを持つ。一方で写真集では、白背景と部屋撮影の両方で出てくるものの、白背景の方の恋愛イメージは薄く、部屋撮影の方では気まぐれプリンス→にーちゃんのベクトルが強く、足の脛へのキスの意味は「服従」となる。司祭としての禁断を破り、ステンドグラスという聖書の象徴、祭壇の目前でキスを交わした二人だったが、写真集の時点では少し距離が開いている。
私は、これは二人の優しさなのではないかと意訳したい。前作の時点で、幸せな未来がないことを自覚したにーちゃんは徐々に距離をおく。今作においてそれが確信と変わった二人は、接することはなかった。もしかすると、走り出した気まぐれプリンスはにーちゃんのもとへ走ったかもしれない。それでも、気まぐれプリンスはとみたけがあおいに手をかけたという事実のみを伝え、にーちゃんはもしかすると少しだけ悲しそうに微笑むだけにすぎなかったのではないだろうか。自分たちへの思いに蓋をしながら、それでも求めてしまう思いが落ちサビのにーちゃん(→とみたけ)→気まぐれプリンスのリレーなのだろう。

この二人と共通の歌割りを持つのが二番煎じである。まずは気まぐれプリンスと二番煎じのユニゾンだが、一番サビとラスサビの「地面は固まらない」。この二人の写真集でのキスも髪の毛、意味は「思慕」とそこまで重視する必要のある関係ではない。あおとみしろほど劇的ではないが、静かに揺れ動く気まぐれプリンス、にーちゃん、二番煎じの状況を示しているのかもしれない。

最後に残ったのは、にーちゃんと二番煎じの「朽ちる感情」だ。
写真集において、にーちゃんはとみたけの太股へのキスする。意味は、「支配」。写真集のにーちゃんと二番煎じは、直接的にキスはせず、依存しあうような姿を見せる。
前述のにーちゃんと気まぐれプリンスの姿から、この「支配」は密やかにキスを交わした二人に対し、皆に見える場所で深いキスをしてみせたとみたけと白服へのストッパーだったととれるかもしれない。
今作で顔を洗って鏡を見つめたにーちゃんの姿は、強い力を持った目で自身を見つめながら、自身はとみたけたちのようにならないこと、気まぐれプリンスとの距離をとり続けることを強く言い聞かせる。同時に、とみたけがあおいを殺すだろうことを分かりながら、受け入れる姿勢をとっているようだ。
写真集段階で気まぐれプリンスと距離をおいていたにーちゃんと、(後述するが)とみたけと以外に印象的なキスシーンがない二番煎じは、お互いを慰めるような姿を見せる。そして、それぞれが心のうちに隠した気持ちを、「朽ちる感情」と歌ったのだ。

最後に、二番煎じのMV出演シーンで一番大きいのは、二番のAメロだ。上を向く彼が写り、あおいがうずくまる姿が写る。左下を見る姿が写り、白服ととみたけの白い部屋にいるシーンが写る。あおいに声を荒げるとみたけが写ってから、左手を見つめる二番煎じのところに戻る。
前作で一番最初にキスを交わしたのは、二番煎じととみたけだった。もしあのキスがなければ、とみたけは白服とのキスにいたらず、今作のような悲劇も起きなかったのかもしれない。
「助けて 叫んでも泥にまみれ 汚れた手じゃ誰も掴めない」と歌うとみたけに対し、溜まった水に手をつけているのは二番煎じの手だ。とみたけは彼の手を掴めないし、彼もとみたけの手を掴むことはできない。全てを理解してしまった二番煎じは、自身の思いを胸に秘めたまま、最後まで傍観者としての姿勢を貫く。

ここまでが私の考察です。

2:13で泣いているのが誰か確定できないため、分かり次第すべてがひっくり返る可能性もあると思ってます。分かったら教えて下さい。
あと探偵楽曲が種明かしの可能性もあると思ってます。
とりあえず考察やっぱり楽しかったです!

 

私が現場に行く理由と、終わりという未来の話

私は全通ができるわけでもない、弱いオタクです。

そう言ったら角が立つと分かってるけど、敢えて言います。この「弱い」は自分に向けた言葉だから。そのことが悔しいときもあるけど、自分にできる精いっぱいで応援したいなって思ってる。

そして少しずつ、めせもあ。を追いかけて、私の行動範囲が広がっているのは確か。まとまった期間がないと交通費を躊躇っていた遠征も、0泊3日の東京行きや愛知への日帰りでするようになった。むしろ宿泊費かからないんだからお得じゃん。親と一緒じゃない海外旅行も初めてで、韓国に行くのだって初めてだった。5ヶ月で現場に足を運んだ回数は10回を越えて、しかもそのうち2回を除けばすべて遠征。
こんなに早いペースで現場に通ったジャンルはなかったし、私を沼に突き落とした友達も驚いてた。

中学生の頃から、自他共に認めるアイドルオタクだったものの、ガリ勉学校&箱入りのダブルコンボで在宅を極めていました。ライブなんて、人生で何回かしか行ったことなかった。LV(ライブビューイング)は結構行ったことあったけど。そんな私が毎週末のようにライブに行くことになるなんて、想像もしていなかった。

なんでそんなに通うのか、って聞かれることがある。
会いたいからだよね、話したいからだよね、見たいからだよね。
もちろんそんな彼らの魅力は理由のひとつだけれど、それ以上に私を突き動かしているのは、見ることすらできなくなってしまうことへの不安と、そうなった時に後悔したくないからだ。



私が見たアイドル(やそれに準ずる)グループの終りのなかで、特に記憶に残っているものは三つある。
敢えてグループ名は出さないけれど、分かる方がもしいたら、そっと頷いていてほしい。

一つ目は、音楽性の似た若手俳優二人がタッグを組んだユニットだった。

私が初めて、リリイベや握手会に行ったユニットだ。
三つ目に挙げるグループの解散の直後に結成が決まったから、ユニットを組んだ瞬間から追いかけることができることが、とても嬉しかった。ずっとDVDやYouTubeニコニコ動画で見ていた舞台上の存在だった彼らが、目の前にいることが本当に幸せだった。一、二言だけでも交わすことのできた言葉が嬉しくて、長い長い手紙を書いた。シングルにアルバム、TV番組とのタイアップと波にも乗っていた。

アイドルってわけじゃないし、ロック系の曲調だから、長ければ30年くらい、短くても10年は続けられるよね?

けれど、わずか一年半で、そのユニットは活動中止を発表した。理由は分からない。片方のメンバーのブログはサイト自体がなくなった。

悲しむこともできなかった。ただ、突然、消えてしまった。
いつかまた、会えるのかな。四年たった今でも淡い期待はなくしていないけど、たぶん、一生見ることはできないだろうという予感はある。少なくとも、まだ表舞台に立っているもう一人のメンバーも確実に年を重ねていて、あの頃とは見た目も大きく変わってしまった。
顔ファン、って訳じゃないけど、もう絶対に同じ景色は見られない。それは、どんなグループでも同じこと。いつか再結成しても、今と同じ姿で見ることは絶対にできない。今は、今しかないんだって、当たり前のことを私は知った。



二つ目は、国民的アイドルグループに成長した9人組女性声優ユニットだった。
解散が決まってから映画でその伏線になるようなストーリーを展開したり、紅白に出演したり、ゆっくり解散を受け入れる時間を作ってくれた。でもその頃には、会いに行くには、あまりにも大きくなりすぎていた。

中高生の間から、ずっと大好きなグループだった。それこそ初期の、アニメ放映前。アイ○スとどう違うの?なんて言われながら始まったこと。知名度の低い声優さんばかりだったのに、アニメ化されて一気に人気になったこと。二期やゲームの展開で、一般の人にも広く知られるようになったこと。

その歩みを見ていたから、もう少し続くとどこかで思ってた。声優さんだから、他の女性アイドルより寿命は長いし。こんなに人気だし。ゲームもあるし。だから、いつか行けたらいいな。
そう思ってたら、解散が決まってしまった。高校生の三年間をモデルとしたアニメだったから、必然だったのかもしれない。ただ私が、その可能性から目をそらしていただけ。必死にチケットを当てようとした。円盤を積んで、友達と協力して出した。でも、当たらなかった。
なんでもっと早い段階で行かなかったんだろう。後悔してもしきれなかった。結局、LVで解散ライブを見に行った。

ぐうの音も出ないほど、美しい終わり方だった。アニメのストーリーと同じように終わりを迎えて、人気の絶頂で舞台を降りていく。きっと、アイドルとしては最高の結末。

でも、私のなかには大きな空白が残った。それは、大好きなグループがなくなったこともあるけれど、それ以上に、一度も生で見ることができずに終わった、どうしようもない後悔だった。




最後に挙げたいのは、時期的には前の二つのグループの終わりより、さらに前にあった出来事だ。それでもこのグループのおかげで、今の私は現場に行こうという気持ちが一番強くなっているから、敢えて最後に書かせてもらいたい。

それは、知名度をあげるために駆け出しの若手俳優を集めたグループだった。
彼らの多くはテニスのようなバトルをするミュージカルを代表作としていて、私たちがそのグループを知った頃には、そのミュージカルの出演を終えていた。年齢的にリアルタイムで追うことはできなかったけれど、歌もルックスも曲もとても素敵なグループだった。
でも、そのグループの人気は、過去の代表作を越えることはできなかった。

新しい道に進むとか、個人での活動が忙しくなってきたとか、たくさんの理由が語られた。一つ目のグループのような理由が分からないわけでも、二つ目のグループのような人気の絶頂でもない、曖昧な理由。
どちらにせよ、私たちがそのグループを本格的に推し始めた頃には解散ライブが決まっていた。
解散すると分かっているグループのCDを集めた。せめて一度でもライブが見たいと解散ライブの日程を調べたら、ちょうどハワイ旅行から帰国する日だった。どうやっても、行けなかった。
解散が近づいて更新されるブログ、発表される新曲、全部、全部が哀しくて、でも、好きだった。今でも大事にとってあるし、曲も、歌詞も覚えてる。微妙に離れた年齢のせいで、私と彼らの時間は交わることはなかった。

雨男のリーダーを持ったそのグループの解散ライブは、暴風雨だった。ハワイから帰国する飛行機は悪天候に巻き込まれて、なかなか着陸できなかった。ブツブツに途切れた、ニコ生の解散ライブを泣きながら見たことを、私は絶対忘れない。



この教訓を生かして現場に行ったけれど立ち消えてしまった一つ目のグループ、教訓をいかせずに現場に行かなかった後悔の残った二つ目のグループ。


その記憶が、私が現場に向かう背中を押す。





最後に挙げたグループの、ラストシングルの作詞は私の推しで、リーダーだった。ラストシングルの歌詞を、今でも鮮明に覚えている。

『はじまりあれば終わりあること 本当は誰もが知ってて』

明るい曲調に乗ったサビのこの歌詞がすごく悲しくて、今思い出しても心が辛くなるけれど、私のなかにはっきりと刻まれている。
オタク人生の教訓だ。

必ず、終わりは来る。忘れちゃいけない。

例えば、ジャ○ーズのようにTV出演がメインで長時間のライブの回数も少ない、比較的寿命の長い男性アイドルグループでも、40代を目処に終わりを迎える。考えたくないことではあるけれど、私は、いつも考えている。あと何年、続けてくれるのかな、って。

もう、これ以上大好きなグループの解散の瞬間に、後悔したくない。これからの人生が幸せでありますように、って、泣きながらかもしれないけど、笑顔で送り出したい。

それは、自分にできる限り、自分で満足できるくらい現場に行かなければできないことなんじゃないかと思うんです。




私は、多少曲やメンバーは知っていても、℃-uteのオタクではなかった。でも、彼女たちの解散ライブや、それを見たオタクたちの反応を見て、今までの後悔をたくさん思い出しました。
そして、自分が現場に足を運ぼうと思う理由も。

めせもあ。は特別なグループです。現場に行けるだけじゃない。たくさんお話しする機会があって、歌やダンスはもちろん、それだけじゃなくて直接勇気や元気をもらえる、そんなグループ。会いに行くハードルは手の届かない高さじゃない。
だから、私は何度だって会いに行きたいし、会いに行くと思います。




もし明日、貴方の推しグループが明日解散したとして、貴方は後悔しませんか。

悲しい、寂しい、はもちろんあると思うけど、そうではなくて、後悔、しませんか。




実は、今の私は、悲しくて辛いと思うけど、もしもしもしもし推しグループが明日解散しても、後悔はしません。自分にできる範囲、行ける範囲の現場は全部行っているから。

行けない現場も検討に検討を重ねて諦めてる。妹に何回も同じ交通機関を検索しているところを見られて、諦めが悪いって笑われながら、でもそうやって調べ尽くして諸々の理由で行けなかったことは、自分で納得できるから。

後悔するとしたら、もっと早くからめせもあ。のことを知らなかったこと。でも、昔のことは言い出してもきりがないし、そんな後悔を吹き飛ばすくらいの思い出が、もうできています。

これは、現場に行きませんか、という薦めです。
ジャンルは問いません、それでも、大切なものがなくなったときに後悔しませんか、という問いです。




『はじまりあれば終わりあること』

誰もが知ってること、貴方は忘れていませんか。