推しに手紙を書くということ



ひさしぶりに、推しに、大の苦手な手紙を書いた。

私の行く現場は、ライブのたびにプレゼントボックスに「お手紙のみ」入れることができる。
このようなプレボはもっと大きなアイドル現場や声優現場でも存在するけれど、私の本現場では(どこまで真実かは分からないが)スタッフからの検閲なしにメンバーに届く、という点がかなり珍しい要素だと言えるだろう。
例えば、外から見て差出人の名前や住所の記載のないお手紙は、身元の確認ができず、誹謗中傷などが書かれていたり危険物が入っている可能性が高いため、本人に届けられることなく捨てられやすい、という話も聞いたことがある。開封されることなく、また外に差出人のハンドルネームのみしか記載していない状態の手紙がメンバーに届く現場はあまり聞かない。

また、事務所宛に送ったプレゼントは、(こちらも真実はどこまでか分からないが)基本的にメンバーの手元に渡るとされている。
もともとが地下アイドルの規模でスタートしたからかもしれない。それでも、今はパシフィコ横浜で公演をする規模のグループが、今なおそのスタンスを貫いているのは珍しいと言えるだろう。

私は文章を書くのが好きである。
だから誤解されがちなのだけれど、私は、とんでもなく筆不精である。まめに手紙を書いている妹を横目に、動画をだらだらと眺めて寝る。推しのツイートやインスタを見て「かわいいかわいい!」と大騒ぎして、リプもせずに寝る。あとでリプしよう、と思って、内容を考えているうちに忘れる。
その程度の愛しかないんだね、と言われたら、私は否定できない。推しに向ける言葉は選びたいし、推しを褒める言葉はどれだけの語彙をかき集めても足りないし、足りないからといって雑な言葉を使いたくないし、万が一にでも、推しを傷つけるかもしれない言葉を吐きたくないと思っている。でも、オタクなんてそう思っている人は大多数で、それでも全部のツイートにリプライしたり毎公演手紙を書いていったりする人はいるのだから、やっぱり私は筆不精なんだろう。

時々、無償に贈り物をしたくなる時がある。手紙を書きたくなる時がある。現場がない時でも、そうなる時がある。
事務所に、唐突に蒸気でホットアイマスクを送ったこともある。しょうもない内容の手紙を一枚だけ送ったこともある。それは推しの手元に届くという確信があったわけでも、ましてや推しの手に触れると思っていたわけでもない。単純に私が推しにあげたいなぁ、と思ったからその気持ちを満たすために送った。それだけ。

来年から、この現場の贈り物のレギュレーションが変わるという。プレゼントの受け取りはしない。手紙は、中身を確認してから問題のないもののみメンバーに届く。
今まで恵まれすぎていたのが、普通に戻るだけだ。男の子アイドルの最大手事務所と、限りなく近いレギュレーション。

香川公演が終わって、ライブハウスから出たところでその情報を知った。タイムラインでは、嘆くオタク、怒るオタク、いろいろいたけれど、「阿鼻叫喚」って単語が近いような、そんな状況だった。私はなんとなくそれを遠巻きに見ていた。
先述の通り、私はほとんど手紙を書かないオタクだからだ。生誕祭と、各ツアーで一回書くか書かないか。年に3、4回。それは、ブログを書く頻度より少ない。

書きたいことがたくさんあって、傷つけるような解釈が生まれる言葉を残したくなくて、何度も書き直すにはブログの方が向いている。書きたいという衝動は唐突で、例えば通勤中やベッドの中でやってくる、なのに書き上がるには長い時間がかかる。書くものと便箋と封筒と、文字を書くための明るさと場所が必要な手紙は、私の感情の起伏に対して不向きだと感じていた。
なにより、私は字を書くという行為にコンプレックスがある。封筒に文字を書けば果し状と言われる(今までお取引をした沢山の方、ごめんなさい)し、可愛らしい文字が書けない。ましてや推しの字は可愛いし、汚い私の字の文章は長い。最悪である。

だからこそ、手紙を書くときは、本当に書きたいと思ったときだけにしていた。どうしても書きたいとき。
後述するのだけれど、それは、「誰にも読まれなくてもよいけれど言葉にしたい」と思ったときのことだった。

確かに想いや物を送りたくなることはあるけれど、別に送り先がなくなっても困ることはないと思っていた。たくさん伝えたいことがあるのなら、幸いなことに推しはネット上にいるのだから、そこで言葉を紡げばいい。あるいは接触で。
別に、直接伝えなくたって周りのオタクと話せばいいし、聞いてくれる人がいないなら独り言だって構わない。なぜなら、手紙やブログにしたところで、それは等しく推しから「読まれる確証のない言葉」なのだから。読まれる確証がなくても発したくなるそれは、極論、あくびと同じようなものだ。つい出てしまう、我慢するのは苦労する、したところで誰にもなんの影響も与えない。それでも書きたいと思った時に、自己満足の手段のひとつとして書くのが私にとっての「手紙」だった。
だから、手紙やプレゼントのレギュレーションが変わったところで、なんとなく関係のないことだと思っていたんだ。



先日、推しに年の瀬の挨拶をした。例年はカウントダウンコンサートでしていたのだけど、会える確証がなかったので。
例年?嘘、去年の私は抽選で落ちて会えなかったので、二の舞にならないよう先に挨拶することにした。

「少し早いけど、今年も一年間ありがとうございました。」

「今年も、いろいろあったねぇ。」

予想外の返しにびっくりしてしまって推しの顔を見上げた。推しは結構背が高いから見上げないと目が合わない。自分の顔面はコンプレックスだらけだし、あまり人と目を合わせるのが得意ではないから、話す時は首から顎のあたりをふわっと眺めていることが多いのだけど、思わず顔を上げてしまった。推しは、なんだか寂しそうな顔をしている。
何故驚いたかと言うと、私は、今年は「いろいろ」あった年ではないと思っていたからだ。パシフィコ横浜での公演は今までにない規模感で、はじめてのことではあったけれど、それ以外のライブは今までも何度か行った会場がほとんどで、後半のツアーは昔の演目が多くて、「懐かしい」という印象が強かった。物販が事前抽選になったり、チェキ券が抽選になったり、1枚しか申し込めなくなったりした去年や一昨年の方がよっぽど「いろいろ」変化があったなぁと思っていた。去年は初めてのミュージカルがあって、一昨年は初めての個人の仕事がたくさんあって。今年はその延長のような、すごく落ち着いた一年だった気がする。スマチケの導入が唯一の大きな変化かな。

「私も、めせもあさんのおかげで初めてタイに行ったりできて、楽しかったなぁ。」

会話として適切な返事ができていない自覚はあった。でも、なんとなく推しの発言がピンと来なくて、咄嗟に出た言葉がそれだった。
今年はバカみたいに楽しかった思い出しかないのだ、本当に。だから、目の前で、どこか寂しそうな顔で笑う推しの感情を理解できなくて、私は焦った。

「いつもいろんなとこを褒めてくれて、ありがとう。」

私の困惑が分かったのか、推しはそんな趣旨のことを言った。推しの言葉も会話としては不自然で、それだからこそ、それが推しの伝えたいことなんだと思った。
推しが、何をもって「いろいろ」あったと言ったのか。どうしてそんなにかなしそうな顔をしたのか。
思い当たったのは、手紙のことだった。

推しは、おそらく、私の手紙を読んだ記憶はないと思う。自分のことばかり話してしまって、接触のあとに反省したことも何度もある。私が書いた、推しを褒める内容の手紙や推しを褒めた言葉を明確に想像したわけではないと思った。もちろん、私が手紙を書くという行為が苦手なことを、推しは知らないのだろうし。
それでも、手紙で推しを褒めている友達はたくさんいる。手紙は推しを褒める言葉ばかりだと信じていた。だから、推しの表情と言葉から、手紙のルールが変わったことを気に病んでいるのかな、と思ってしまった。
私は、推しを褒めることに対して無自覚だった。だから、ありがとうと言われてもやっぱりぴんとこなかった。

「だってとみたんはとっくに最強のアイドルだもん!」

推しにそう返して、それから自分が推しを褒めていることに気がついた。時々、ごく稀に書く手紙は、思いのままに綴ってしまうから単調で、恥ずかしくて読み返しもせずに投函していたけれど、確かに同じ内容ばかり書いていた。
推しは、うれしそうに笑った。推しにはこれが嬉しいんだ、と知った。私は時々しか書かないけど、きっと私以外のたくさんのオタクがたくさんたくさん同じように手紙で褒めていて、それを喜んでいるんだろうなって。
スタッフは近くにいるけれど、干渉してくるわけでもない。オタクの感情が、言葉がストレートに、他の誰にも触れないまま推し本人に届くこと。
それはとてつもなく尊いことなのではないか、と私はその時に思い当たった。



推しに手紙を書くということは、平安時代の恋文に似ている、と私は思う。
御簾の向こう、直接会うことも話すことも許されない相手に思いを馳せ、言葉を紡ぐ。従者に渡したそれは、正しく届けられたか確認する術はない。
推しに喜んでもらえるよう、便箋を選び、ペンを選び、時間をかけて書かれるファンレターは、現代において稀有な媒体だ。
SNSが発達し、現代社会では遠くにいてもすぐに、どんな時間であってもすぐに、伝えたい言葉を伝えられるようになった。SNSはまた、公かつ膨大であると同時に、プライベートで捨ておかれやすい空間だ。たくさんの情報が入ってくる代わりに、不要な情報はシャットアウトできるし、流れていくことも多い。一度呟けば永遠に誰かの手元で残ると言われながらも、数日前の気になった話題はなかなか見つけられなかったり。
そんななかで、ライブに行かなければ、あるいは郵送しなければ推しに渡すことのできない、時間をかけて物を選び書かれるファンレターは、時代に逆行しているようにすら感じる。接触があるような規模ならば直接言えばいいのに、何倍もの時間をかけて書かれ、直接話すより何倍もの内容の詰まったそれ。私はそれを、「愛」だと思った。

本人に届く前に他の誰かの目に触れたからと言って、言葉の価値は変わらない。ナマモノじゃないんだから鮮度なんてものはないし、素敵な言葉は千年経っても素敵だ。
けれど、誰にも読まれないかもしれないからこそ、推しにしか読まれる可能性がないからこそ、書けたことはあった。誰にも打ち明けたことのないこと、推しに救われたこと、推しと出会って知ったこと。普段は恥ずかしくて誰にも言えないことを、そっと手紙に載せたことが、私にも何度かある。ちょうど千年前ほど前、和歌に想いを隠した文が送られていたように。
否、私が敢えて手紙という媒体を選んだのは、誰にも読まれなくてよいから、誰にも打ちあけられない想いを書きたい、必ずそんな時だった。

誰かに、それも見ず知らずの誰かに確実に手紙を読まれるという意識は、どうやっても言葉を変えてしまう、と思う。私もそうだし、周りのオタクも気にしているのを知っている。自分には関係ないと思っていたのに、推しから私が勝手に感じ取ってしまった寂しさは、私自身の寂しさの投影だったんじゃないかな。
そして、そうせざるを得ないほどの悲しい言葉が届いたことがあったのだろうという事実にもぶつかる。
手紙は、愛と悪意のどちらも注ぎやすい、諸刃の剣なんだろう。


SNSの発達により、簡単にメッセージを送ることができるようになった。不要なメッセージを受け付けないよう、DMの閉鎖やSNSを禁止するグループが増えた。SNSを使用しておらず、一般人からは伝達手段のないタレントへ、手紙だけなら受け付けるグループが増えている。
心のままにメッセージを送りたいオタクと、肯定的なものだけ選んで受け取りたい演者のいたちごっこ。だから、グループが大きくなれば仕様の変化は避けられない。乃木坂46が、デビュー6年目に突如プレゼントの受付を中止した時の騒ぎも記憶に新しい。
年内までは受け付ける、と事前に告知してくれている点では、私のいる現場はとても優しいと思う。


12月の頭、なんとなく、最後の機会だろうからと思って久しぶりに手紙を書いた。推しに真っ直ぐ言葉が届く最後の機会なのかもしれない、と思ったから。それに、私は「誰にも届かなくても構わない」と思いながら、それでも言語化したくなった言葉を手紙にしていたのだから。
必ずスタッフの目を通ることになるのなら、私があえて「手紙」を書く理由はなくなってしまう。言語化は、手紙でなくたって、リプでもブログでもただのツイートでも、独り言だってできるもの。手紙は形に残るから、といって選ぶ人が多いのも知っている。ただ、私の手紙はそもそも読まれない前提で書いているから、形に残るのは邪魔になるだろうし、マイナスにしかならない。
いざ最後の手紙のつもりで筆を取ったら、意外と文章は多くならなくて、便箋は1枚に収まった。幸いなことに推しと話す機会は今年も十分あったし、時々手紙を書く時にはどうしても書きたい言葉を選ぶせいで、いつも似たような言葉を選んでいた気がする。それに、そんな言葉は、接触でも息をするように口にしているはずだ。
最後に限られた場所で書くなら、何を書いたらいいんだろう。読まれることなく消える可能性の十分にある手紙は、とんでもなく自由だ。

「今まで、楽しい時間をありがとうございました。」

まるで他界するような文を書いてしまって、一度丁寧に消した。

「手紙を書くのは本当は苦手だけど、とても楽しい時間でした。誰にも読まれないかもしれない、とみたんと私にしか触れることのない言葉なら、伝えたいことを真っ直ぐに、自分の気持ちに正直になれました。楽しい時間を、ありがとう。」

ほら、伝えたいことを伝わるように書くと、とんでもなく言葉は長くなってしまうから。残りは、新曲のこの歌割りが好きでした、とか、この表情が好きでした、とか、いつもと同じことを書いておしまい。


手紙やプレゼントのレギュレーションが変わることは、推しに伝わるオタクからの気持ちや言葉が、多少なりとも変質することを意味するんだろう。ここ数年の、私の認識していた変化は、オタクにとっては「いろいろ」大きな変化だったけれど、物販の整列方法や申し込み方法の変更は、オタクと推しの関係を変えるものではなかった。
接触の時間は減って、いずれほとんどなくなるのだろうと確信している。手紙も直接届かなくなった。プレゼントを渡すことはもうできない。言葉を交わすのに十分な時間は、推しに言葉やものを、気持ちを送ることができる量は、あとどれだけ残されているんだろう。どれだけ真っ直ぐな言葉を届けることができるんだろう。



年の瀬だからか、推しがたくさんブログを更新するようになった。推しの言葉は大好きだったけれど、彼はあまりSNSがマメではないし、現場に行かなければしばらく彼の言葉に触れないことはザラにあった。
そんな推しが、繰り返しブログを更新して、「ありがとう」と言う。
言葉は形に残らない。メンバー皆が更新するブログは、すぐに下の方に流れてしまうし、遡るのは難しくなるだろう。それでも、推しの言葉は心に残った。

「ありがとうって言葉は全ての人を幸せにするからたくさん使ってね」

珍しく絵文字もない推しの言葉に、流星を見たような気持ちになった。言葉を、使ってほしいと推しはいう。
直接言葉を交わせる時間がなくなっていく今、仮にスタッフの目を通ってから渡るとしても、推しが読むか分からないとしても、言葉を伝えようとすることに意味があるのかな、って、少しだけ、思えた。
あぁ、また推しから新しいことを教えてもらった。

期待しないことは傷つかないこと、って、この前推しはラインライブで言っていた。本当にその通りだ。誰にも読まれないと思っているから、その言葉が仮に届かなくても傷つくことはないし、確かめようとしたこともない。でもそれは、すごくさびしいことなのかもしれない。言葉を、推しを、信じていないことなんだから。
気持ちを込めれば必ず届くなんて幻想は言わないよ。でも、推しに届くかもしれないって信じて言葉を紡ぐことはきっと幸せで、推しが大きくなるのは幸せなことだけれど、そのせいでどうやっても変わってしまう推しとの距離を少しでも埋める手段なのかな、って思った。たくさんたくさん考えて思ったことを伝えるために、推しが手に取ることを考えて時間をかけて言葉を書いて封をすることは、SNS接触には代えられない価値がある。きっと。
伝えようとすらしない言葉は、絶対に届かない。
聞き飽きてるかもしれないけど、また同じことを言ってしまったと後悔するかもしれないけど、伝えたいことは、何度でも言っていいんだと、やっと思えるようになった。
もう少し、手紙を書いてみようと思った。衝動で、誰からも見られないと思って書くんじゃなくて、推しを思って推しに届けるための言葉を。

今年が終わるまで、あと2週間。推しに直接届く最後の手紙は、まだ出すことができそうだ。
そして、推しに直接は届かないかもしれないけど、直接でなくても届かないかもしれないけど、推しのことを思って便箋を選んで、言葉を選んで、手紙を書く楽しい時間はこれからもあるはずだから。何も知らない、誰かも分からない人に推しへの想いを見られるのはこわいことかもしれないけど、でも、推しを思って書いた言葉なら、その言葉は絶対に色褪せないはず。

ファンレターを送ることって、とても幸せなことなんだね。推しに言葉を伝えられる場所があることは、条件があったとしても、すごく幸せだと思う。
年の瀬を理由にして、少し長いお手紙を書こうか。あるいは、葉書一枚の年賀状でもいいかもしれない。今はまだ、「ありがとう」しか書くことが決まっていないから。それしか浮かばなければ、「ありがとう」だけでもいいんだろうし、それでだしちゃおうかな。
そう思ったら、手紙を書くのが苦手じゃなくなって、楽しいだけじゃなくて、幸せなことに思えてきた。

スタッフに読まれるなら、手紙を書くのをやめたい、やめよう、と言っている人を、私はたくさん見てきたし、その気持ちもよく分かっている。
でも少しだけ、来年からは今年よりも多くお手紙を書けたらなぁ、なんて思いはじめている、私もいる。

(手紙を書く意義が見出せず、手紙を書くのが苦手だった私が、手紙を書こうと思うようになった話を書きたかったのだけど着地点を失った。気が向いたら加筆修正します。)